2020年11月20日 17:10

電波おやじの記憶・寄り道

カテゴリ:昔のハナシ
退職した勤務先から持ち帰った中から、成り行きとして過去に手がけたTV-CMとR-CM=すなわち「電波」制作の原案をご披露する事になりました。各案の意図をざっくり解説し、制作に至る前後の事情や経緯を語りながら、それぞれの時期に私が置かれた環境等についても触れようと思います。いずれも、以前のようにマーケやSP上で何ら目新しい情報や啓発し得るモノは含んでおりませんし、関心のない方には退屈なだけかと。どうぞスルーなさって下さい。

30代はじめから40代半ばまで勤務した代理店では、入社以降は専ら私が電波モノを担当しました。他に2人いた先輩ディレクターはデザイナー出身だったし、そもそも本人たちは「自分の仕事ではない」とその気が皆無でしたから。ただ私にしても、その前に所属したD通の影武者的プロダクションでラジオCM案こそ何本か制作経験はあったものの、テレビCMは皆無。入社後いくつか出くわしたCM主導キャンペーンのコンペや、その後いくつか実務で携わったDCMで(通称「紙芝居」と呼ばれる簡易的なCMで、動画でなく静止画にズームやワイプと呼ばれる動きを加えて構成)制作出身の先輩営業から指導やアドバイスを受けながら経験を積みました。
なお、今回から数回に渡ってご紹介する予定のものは(余りに古過ぎるのも何ですし)その代理店を辞して以降の企画段階のプランです。どの時期の案も上記で触れたように初回の提案時のモノで、あらかじめお伝えしますが、カタチになった仕事も含めて実現した案はありません。すでにそれなりの年月を経てるとは言え、それぞれに置かれた立場や状況は異なりまして、差し障りのない範囲でそんな辺りもよもやま的に。

まずは20年近く前。私が先にお伝えした代理店=名古屋支社から、誘いを受けて転職・就職した在名の小さな代理店時代の仕事です。先の代理店で最後となる3年間、私は営業職として勤務しました。あのバブルが弾けてから、じわじわ広告業界も厳しくなり・・・と言っても後のリーマンや、まして今のコロナ不況ほど急激でなく、株価と違って業績ベースではあくまで時間と共になだらかに、でしたが。
勤務先もそんな景気の波から、全社的なリストラ策=昇給率や賞与額の低下、希望退職者の募集とは別に、支社レベルでも詳しく述べるのは憚られるドロドロした生き残りやトップの策謀が展開。結果として上の営業役職者その他が退職に追いやられ、当時は制作部門のリーダーだった私が営業職に転向させられる事に。いや、もう、あの頃はとにかくお先真っ暗な気分で。それまで(以降も含めて)転職はいずれも誘いを受けたり人を介しての紹介だったのが、この時はじめて募集企業を探して、広告の制作畑ならとのべつまくなし履歴書を郵送して応募しました。

代理店の制作ポストで然るべき実績を残した自負はあったのですが、どう見ても格下(失礼!)と思える企業複数からも不採用通知と共に履歴書が返送されて来て、初めてその時の自分の「市場価値」を思い知りました。バブル後だったし、今さら40過ぎの制作マンなんて…と言う、認めたくない現実が突き付けられた訳です。2社ほど面接が進んだ代理店とプロダクションがありましたが、その中で実績を見せてもらい内心「こんなレベルの仕事に携わるのか…」と気の進まない様子が、面談を通じて相手にも伝わったのでしょう。いずれもゴールには至りませんでした。
それで年度替わりの新たな春から、泣く泣く営業職として先輩について既存やアプローチ中のクライアント、テレビや新聞など媒体社を回る日々が始まりました。それまで培った経験やノウハウが発揮できる訳でなし、もう羽根をもがれた鳥の心境で毎日を鬱々と過ごしたものです。それでも3ヶ月のOJT期間を経て、こんどは折々に支社長に同伴。アプローチ先に担当として紹介を受け、ほどなく広告コンペ参加を経て相次いで中と大クラスの案件を獲得(名古屋市内の分譲マンションSP一式、三重県で4社合同の大型戸建て分譲事業一式)。以降は制作的な企画を武器にそれなりの売上を稼ぎ出して、まずまずノルマを達成できるようにはなりました。

が、3年目を迎える頃には、それまで制作職として培った自分の営業スキルに限界を覚えると共に、つねにクライアントの前で神経を使う日々にどうしても馴染めなかったところ…その時の代理店に入社した当時、制作の先輩ですでに転職していたディレクターから、彼が役員を務める小さな代理店に営業兼務の制作として来ないか?そう誘いを受けたのです。
と、ここまで綴って来て、マクラとしてのエピソードが余りに長過ぎると気がつき(汗)…当初、今回は「電波おやじの記憶・破」とする予定だったのですが、止むなく「寄り道」編として当時の環境などよもやま話に終始。おざなりのスマホ画像もインサートせず、1回目のコンテご紹介は次回と言うコトに(汗×2)。

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で、以下は寄り道ついでwと言うコトで>この当時「中堅」と呼ばれた代理店は(慣例的に全国の売上ランキングで11位以下~30位くらいを指す)マス媒体=主にテレビCMをレギュラー出稿する全国区スポンサーを、それぞれ2、3社くらい抱えていました。例えばKD広告ならHONDAを、KW広告ならPOLA etc.と言った感じで。ちなみに私が勤務した代理店は入社当時ランキング10位台の後半くらい。当時は在名(本社)代理店としてトップのSK社とほぼ肩を並べて推移して(その後は以前サン・ジョルディの項で紹介したST通信が在名トップに)退職時は限りなく30位に近い辺りまで転落。メインでアカウントを取っていた主な広告主としては、本社が商工中金、宗教法人の霊友会=インナートリップ、大阪支社がドル箱たるヤンマー。また他社と切り分け担当が、日立グループ各社、NCR、キャノン、カルビー、ヤマサ醤油etc.でした。

このようにバブル期までは中堅各社が抱えていた大手スポンサーを、同じく大手の代理店=D通やH堂は横目で見ながらも放置していたのですが…バブル崩壊以降は大手も状況が厳しく、アグレッシブに「獲りにかかる」モードにシフトチェンジ。KW広告が名古屋から撤退したのはPOLAのメインアカウントを失ったからですし、私の古巣でも鉄壁の牙城を誇ったヤンマーの天気予報がH堂に一部扱いを奪われて、当時は衝撃を感じるほど驚いたものです。
ついでながら…毎週、本支社の営業週報でずっと「ヘンな名前、精力絶倫とか回春薬でも作ってるみたいw」などと制作内で笑っていた再春館製薬。当時は福岡支社がメインで扱っていながら(自社内の制作とは言え)広告表現も今ひとつだなぁと思っていたのが。アカウントがH堂の本社に移った(=獲られた)とたん、見違えるようにクリエイティブが洗練され、それと並行してクライアントの業績も向上。ご存じの通り、今や年間通してCMが全国で流れるほどまでに。まぁ驚くやら、情けないやら(恥)


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Posted by さすらいのアドマン │コメント(0)
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